「世界線」の意味と「世界観」との違いについて。
最近、テレビやラジオなどで引っかかる言葉がある。
それが、「世界線」という言葉だ。
僕が一番最初に、この言葉に触れたのは、Official髭男dismの「Pretender」という曲のワンフレーズだ。
もっと違う設定で もっと違う関係で 出会える世界線 選べたらよかった もっと違う性格で もっと違う価値観で 愛を伝えられたらいいな そう願っても無駄だから 引用:Pretender
当初からこのフレーズ部分だけ喉に魚の骨が刺さった時のような「ん?」という引っかかりがあったのを覚えている。
しかし、長らく放置していたのだが、先日僕のお気に入りのポッドキャスト「ドングリFM」のラジオ番組内でもこの言葉がごく自然な使われ方をしていて、とうとうしっかりと調べずにはいられなくなったので、この記事を書くことにした。
「世界線」の本来の意味
「世界線」という言葉のルーツは、アインシュタインが提唱した相対性理論にあるという。
Wikipediaから引用すると、以下のような説明になるのだが…ゴリゴリの文系人間である自分にとっては全く理解不能だ。
世界線とは、零次元幾何を持つ点粒子の時空上の軌跡を言う。一次元、二次元幾何を持つ物体の軌跡はそれぞれ世界面 、世界体積 と呼ばれる。
引用:Wikipedia
「世界線」の一般化と多様な解釈
先ほど紹介した物理用語としての「世界線」という意味を一般化させたと言われるゲーム原作としたアニメがある。それが、「シュタインズ・ゲート」である。
シュタインズゲートでは、今存在している時間軸のことを『世界線』って呼び方をします。
過去を改ざんすると当然歴史が変わるわけなので、今いる世界線とは別に新な世界線が生まれるんです。
「変わる前の世界線と変えた後の世界線がそれぞれあるのでは?」というのがシュタインズゲートでは良くある質問なんです。
シュタインズゲートでは、同時に複数の世界線は存在できません。
新な世界線が生まれた時点で、全ての事象は分岐し人の記憶や存在そのものなど世界の構造そのものが新たに作り替えられるんです。
ちなみに世界線が複数同時に存在するパターンを『パラレルワールド理論』と言います。
シュタインズゲートではパラレルワールド理論は採用されていません。
なので仮に人が死んだとしても世界線を変えることで、その人が生きていた場合は死ぬときの苦痛も何もかもが消し去られるんです。
厳密に物理学的な理論に照らし合わせて考えると、シュタインズゲートで表現される「世界線」の表現は、多用な解釈のうちの一つであり、中にはその表現に対して誤用を唱える人も存在するようだ。
しかし、一つ言えることは、現在の日本で一般的に使われる「世界線」という言葉において、最も多くの人が「シュタインズゲート」をビジュアルイメージとして思い描いているという事実だ。
実は、冒頭に紹介したOfficial髭男dismのボーカルである藤原氏も、「シュタインズゲート」の大ファンで、この作品から着想を得て、歌詞を作成しているという。
藤原「ちなみにPretenderの中で<世界線>という単語を使っているんですけれども、僕は「STEINS;GATE(シュタインズゲート)」というアニメの大ファンでして、このフレーズはそこからインスピレーションを受けたところもあります。 そのアニメはタイムトラベルをする話で、世界線というものが並んでいて、もしもこうなっていたら、次はこうなっていたという前提で進んでいく世界というものがあるんですね。 それで「シュタインズゲート」の中では、主人公がその<世界線>を越えて、世界を変えたいという思いで奮闘していくんです。だから僕にとって<世界線>という言葉はとてもロマンチックなもので大好きな言葉なんです。」
引用: www.uta-net.com
「世界線」と「世界観」との違い
一般的に世界観とは、特定の個人や集団、そしてアートや文化的な作品の統一的な解釈や意味付けを示すものだ。
そして、それは僕らが生きる「イマ」という世界線の上に成り立っているものだと言える。
つまり、世界観とは世界線の中に包含されるものであり、世界線という架空のタイムラインの数だけ個別の世界観が存在するという解釈ができるのではないだろうか。
Twitter上で一般的な使われ方を見ていくと、「世界観」=「統一的解釈」、「世界線」=「パラレルワールド」を揶揄するような意味合いで使われていることがわかる。
「世界線」のパラレルワールド的な解釈の一般化をどう捉えるか?
元々の物理学的な「世界線」という意味合いと、現在の一般的な使われ方に、ズレが生じているという議論について考えてみたい。
僕個人としては、むしろルーツを正しく理解し固執するよりも、一般的にどういう風に使われるようになったのか?を理解することや、その背景には何があるのか?を考えることの方が、大切だと思っている。
なぜなら、時代の流れの中で、正しい意味合いから誤った形で一般的に定着するようになった言葉は山ほどあり、それを正す為に時間や労力をかけることが有意義だとは思えないのだ。
一方、使われ方やその背景を読み解くということは、他の物事にも応用が効く重要な視点だと思ってる。
今回の「世界線」という言葉の一般化から見る個人的な解釈としては、「自由に対する願望の高まり」ということが言える。
現在の僕らはオンライン技術の発達によって、時間と場所に捉われない自由を手に入れた。
いつなんどきでも、誰とでもつながることができる。
しかし、それはいま存在する世界に限っての話だ。
様々な制約がなくなって自由を手に入れても、次はこの世界の設定自体に不満を持ってしまう人はいるだろう。
生まれ変わってもっと違う設定の世界を生きたい。
そんな高次元な自由を求める先に出てくるのが、別の「世界線」というものなのだろう。
今ヒットしている「東京リベンジャーズ」なども、まさに主人公が生きる世界の設定そのものを変える為に、タイムリープによって様々な世界線を行き来する物語だ。
フィクションの世界ではなく、現実に僕らが世界線を跨ぎパラレルワールドに足を踏み入れる日は来るのだろうか。