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30代ビジネスマンの備忘録。 マネジメントやマーケティングに関するビジネススキルや、サウナ、ウィスキー、時計などの趣味について。

ビジネスマンが歴史を勉強し直すことの意味について。

ビジネスマンが歴史の勉強し直すことの意味について。

 

「好きな科目は、世界史」

 

高校生時代の僕は、学校の勉強はあまり好きではなく成績もパッとしなかった。

しかし、唯一「世界史」だけは、いつもクラスでも上位、模試でも高い偏差値だった記憶がある。数学の公式や英語の文法は全く頭に入らないのに、世界史に登場する「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」などのひたすら長い横文字の人物名などは、やたらと覚えることができた。

 

しかし、今振り返ると、当時の僕の勉強の仕方には、かなり問題があったと思っている。それは、歴史における社会的背景や文脈を理解せず、ただ単に人物や出来事の名称を丸暗記していたからだ。

 

なので、選択式の問題に関しては、抜群に強いのだが、理由などを問われる論述式には、全く歯が立たなかったのを覚えている。それは、当時から自分でも課題認識していたが、どうしても難しかった。

 

それは、当時の僕の社会経験値の少なさや思考方法が未熟だったということに尽きるだろう。そして、自分ではとても好きな科目なのに、それを十分に理解しきれない、理解できたらもっと楽しめるだろうに…というもどかしさを感じていた。

 

大学生や社会人になるにつれて、世界史に対する熱量も徐々に衰えていき、必死に覚えた数々の記憶もおぼろげになっていた。

 

しかし、あるコンテンツとの出会いで、長年自分の中で衰えていた世界史に対する熱量が再び沸きあがることになったのだ。

 

そのコンテンツは、ポッドキャスト番組の「コテンラジオ」だ。

ご存じの方にはもはや説明不要の有名番組だが、僕はその存在をつい最近、別のポッドキャスト内の番組で話題になっていたことで知ったのだ。

 

番組の詳細については、下記リンクに譲る。

cotenradio.fm

 

さて、この「コテンラジオ」を聴いていて思ったことは、まずエンタメとしての面白さがあり、しかもそこにビジネスマンにとっても深い学びを与えてくれるコンテンツであることだと感じたのだ。

 

他の歴史学習のコンテンツとの大きな違いは、その時代だけを切り取って詳しく解説するというスタイルではなく、ある特定のテーマで、紀元前から現代までの変遷を追いかけていくというスタイルなのだ。

 

例えば、コミュニケーションの歴史、お金の歴史、性の歴史などテーマ設定がある。

 

今回の記事では、その中でも人が自分自身をどのように定義しているのか?という自己認識に関する歴史的変遷についてのラジオ内の複数テーマから、自分なりに感じた考察を復習も兼ね得て記事にしたいと思う。

 

自己認識の歴史

 

自己認識というテーマで歴史を学んでいて最も感じたことは、今の僕らが当たり前だと感じている思想や価値観、習慣や行動などにいたるまでほぼすべてが、人類史で見た場合、驚くほどつい最近に形成されたものであり、それは人間に生まれつき備わっているものではなく、社会によって規定されるということである。

 

それは例えば、

僕は「日本という国の国民であり日本人である」という認識さえも、かなり近代的な人間の考え方なのだ。

 

紀元前から人類が長く歩んできた貴族社会という世界の中では、雇い主と使用人という隷属的な主従関係が続いていた。つまり、使用人の立場からすると、自分のアイデンティティは「ご主人様に仕える人間」という自己定義の仕方をしており、それが当たり前だったのだ。

 

これに対して18世紀以降、世界は産業革命やそれによる資本主義の発展の時期を迎える。それは、これまで貴族からの支配を受けていた労働者階級から徐々に力を与えていく形になる。

 

19世紀には、労働者階級を中心としたフランス革命によってはじめて「人権」という概念が登場する。それによってはじめて、現代の僕らが当たり前に享受している「一人一人の自由や平等」といったものが認識されるようになっていくのだ。

 

そして20世紀には、「人権」の概念がさらに広がりを見せ、独裁国家である王政や帝政が打倒され、民主主義の国家が続々と登場してくる。

 

一方で、民主主義国家形成の特徴としては、単なる力による領土拡大ではなく、人種や民族というアイデンティティを拠り所に合意形成が行われているという点だ。

それ故、その合意形成が失敗してしまう場合、格差、差別が生まれ、ひいてはそれが、世界大戦につながっていくのである。

 

皮肉なもので、「人権」という概念の登場により<貴族VS奴隷>という対立を解消することができたのだが、その次に待っていたのは<国家VS国家>というより大きなレベルの対立構造なのだ。そして、この対立を乗り越えて、いまの現代がある。

 

まとめ

自分自身の認識というのは、いかに社会によって規定されてしまっているかがわかる。

例えば、僕らが求めたり、感じる「幸せ」という感情でさえも、それは社会が規定する「幸せ」とほぼ同義だと言っても過言ではない。

 

そうなってしまうのは、僕らはどうにもできない。抗うことはできない。

でも、それを「人間ってそういうものだよね」と理論上理解することはできる。

 

これは、ビジネスやマネジメントという世界でも、全く同じことが言えるのだと思う。

 

そうすると、仮に自分が「どん底」だと感じる状態になったとしても、これは単に今の社会によって定義されて生じている感情なのだと。そう俯瞰的に捉えることができれば、少しは楽になれるのもしれない。

 

そんなことも歴史は教えてくれる。