【知的探求】余白を楽しむという行為
【知的探求】余白を楽しむという行為
ここ1~2カ月は、映画や美術に触れる機会を意図して増やしている。
その中で、自分なりの楽しさを感じる部分というのが、少しずつわかってきた気がする。
それは、余白を楽しむという行為だ。
映画にしろ、美術にしろ、すべてが懇切丁寧に説明され尽くされた作品というのは、その場ですべて消化しきってしまい、一過性の満足感で終わってしまう。
しかし、あえて説明が省かれて、鑑賞者に対してそれぞれの解釈を訴えてくれる作品というのは、鑑賞した後も、「考える」ということを迫ってくる。
このような作品から与えられた「余白」について考える知的探求の時間というのが、非常に楽しく思えるようになった。
しかし、この余白に対しては、バランスというのも難しいものである。
というのは、余白はありすぎても考えることが追い付かないし、なさすぎてもつまらないという特性があるからだ。
自分の知識や経験に対しては、どこが余白になるかは人によって違うと思う。
ただ、一つ言えることは、知識や経験が増えれば増えるほど、余白の知的探求の体力は向上するということだ。
つまり、以前は余白が広すぎて考えが及ばなかったことでも、知識量が増えたことで、自分なりに考えることができるはずだ。
このようなサイクルの繰り返しが、人の教養を高めてくれると思うし、教養を高めることこそ、人生の最大の楽しみの一つだろう。