「群れる」ことに対して僕が感じている違和感について。
学生時代からなんとなく「大人数での飲み会」や、「大人数のグループラインでのやりとり」こんなものが苦手でした。
しかし、僕はこの違和感を抱えたまま、社会人になって企業という大きな群れの中で生活を送っています。
会社においては、派閥のような組織全体に関わるものから、部署やチーム単位における小さなものまで、人事制度の区分とは全く異なるところで「群れ」が形成されているように感じます。
僕の10年の社会人生活において、大小様々な「群れ」を経験しました。
そこから感じることは、「群れる」ことによって生じる感情は、その集団の性質によって大きく変わってくるということ。
また、「群れている」ことで感じる違和感から解放されるにはどうすれば良いのか?という自分なりの考え方。
今回の記事ではそれらについて掘り下げて考えていきたいと思います。
「群れる」ことに対する安心感
第三者的な目線で見ると「群れている人」というのは、とてもカッコ悪く見えます。
僕もそう思います。
一方で、当事者目線になると「集団に属している」という安心感が生まれることも事実です。
この安心感は、属する集団によっても大きく種類が変わってくると思います。
「ゆるい集団」に属することで感じる安心感
20代半ばの頃、僕の配属された部署はとてもゆるい現場でした。
上司を含め周りのメンバーはいつもおしゃべりばかり、新しいチャレンジはほとんどせず、前年踏襲の慣れ切ったルーティーンを日々こなすだけ。
ちょっとしたミスは何も咎められず、堕落した日々を過ごす毎日でした。
正直、そのようなゆるい集団の中での生活は、ストレスを感じることなく非常に楽でした。
しかし、社内では僕の部署に対する風当たりは強く、一歩部署の外にでた瞬間、別の部署からの視線、会議での発言権や決定権の無さに強い不安感を覚えました。
「厳しい集団」に属することで感じる安心感
20代後半で配属された部署はバリバリの営業系の部署で、同じ会社とは思えないほど、それまで過ごした「ゆるい」部署とは異なる張り詰めた雰囲気でした。
常に自分の行動や言動が見られている緊張感があり、仕事の結果が周囲の自分に対する態度にすべて跳ね返ってきました。
失敗すればボロクソに言われ、成功すればそれなりに評価される。
そして、自分も周囲に対してそのような態度を取らなくてはいけない。という強迫観念すらありました。
しかし、それだけ厳しい集団の中を生き抜いているということは、自分の自信にもつながり、そこから生まれる安心感もありました。
「群れる」安心感の正体とは?
過去を振り返って思うことは、いずれの部署においても僕が「群れる」ことで感じていた安心感とは、「他人からどう思われるか?」が起因していたということです。
・ゆるい部署
⇒どんな態度でも他人からとやかく言われないという安心感
・厳しい部署
⇒社内でも力のある部署にいる。という権威に依存した安心感。
しかし、これらの安心感は「自分」ではなく「集団」に大きく左右されてしまいます。
大切なことは自立すること
どんな集団に属していても、「自分はどうありたいのか?」を大切することが重要だと思いました。つまり、自立することです。
環境に依存することは簡単です。
何も考えていなくても、集団の引力に流されて、集団の主張が自分の考えであるかのような錯覚を覚えてしまうからです。
そして、属する集団が変われば、またその主張も変わります。
僕が昔から感じていた違和感はまさに、「自分がなくなっていく」感覚だったのだと思います。
環境に合わせて自分を変化させていく能力は、ストレス軽減の為にもちろん大切です。
しかし、属する集団の総意とは別の部分で、自分なりの一貫性を持って自立することが、真の意味で「生きやすい」生き方ではないか。と感じています。