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30代ビジネスマンの備忘録。 マネジメントやマーケティングに関するビジネススキルや、サウナ、ウィスキー、時計などの趣味について。

「趣味と飽き」の周期に関する個人的な3つの考察。

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「熱されやすく冷めやすい」

 

元々自分はそんなタイプである。

 

何か一つのことに没頭すると、それ以外のことは考えられなくなる。

自分の思考をすべて支配されるような感覚だ。

 

これはあくまで、「仕事」とは切り離して、「趣味」的なものとして定義して、これからの話を進めていきたい。

 

例えばそれは、サウナ巡りをすることだったり、革靴の収集だったり、特定の監督映画あるいは漫画家の作品を完全制覇することだったり…

 

しかし、そのように特定の何かに心底没頭できる期間というのは、短くて数か月、長くても1~2年という限定的なものに留まっている。

 

これは自分の短所だと思っている。

 

小説で例えるなら、6~7割くらいストーリーが進行したところで、読んだ気になって満足してしまっている気がするのだ。

 

これから、物語が起承転結の「転」に差し掛かって面白くなるだろう。というところで、急に退屈になって物語から離脱してしまう。

 

非常にもったいないというのは自分でもわかっている。

もう少しだけ読み続ければ、物語の一番の山場が待っているからだ。

でも、自分の興味は図らずもどんどん次へ移り変わってしまう。

 

また、多くの人がそうだからこそ、本当の意味で長期的に何か趣味的なものを極められる人というのはそもそもの希少性が高いのだと思う。

 

なぜ、「自分が飽きやすいのか?」という理由や、「ひとつのことに熱中し続けられる人」とは何が違うのか?ということの自分なりの答えを、いくつかのポイントから考察してみた。

 

本質を楽しんでいるか?

 

過去に没頭したことを思い返してみる。

すると、自分の中に飽きという感情が生まれはじめるトリガーがあることに気づいた。

それは、ある行為そのものを楽しむことよりも収集や網羅の達成感が上回った瞬間だ。

 

例えば、高級革靴に没頭した当初は、それそのものが持つ履き心地や質感の高さに感動していた。しかし、いつからかヨーロッパブランドの代表モデルを制覇しよう。希少な〇〇年代のモデルを集めよう。という収集癖に目的が変わっていってしまった。

 

それがエスカレートすると、高級靴を自分のシュークローゼットに並べることに満足して、一度も履かない。という謎な状況に陥っていた。

 

そして、そのような収集を目的としている場合、必ずやってくるのが経済的・物理的な限界だ。持っていない靴の値段は、手が出せない程の高額なものになり、そして自宅のシュークローゼットに新しい靴を収める余地もなくなる。

 

この庶民としての限界を目の当たりにした瞬間、冷めてしまうのだ。

 

僕が過去に出会った本当に長年、靴を趣味にしているような人は、1足を何度も修理して履き続けたり、かと思えば希少な靴でも簡単に他人に譲ってしまったりする。

 

そこには、単純な所有欲や達成感ではなく、もっと本質的な靴そのものに楽しみを見出すという気持ちがあるのだと思う。

 

共感しあえるコミュニティはあるか?

 

趣味の継続というのは、周囲の環境(コミュニティ)に左右されると言っても過言ではないように思う。そして、その背景には2種類の考え方があると思っている。

 

1つは、「コミュニティを維持する為に趣味がある」という考え方。

もう一つは、「趣味を維持する為にコミュニティがある」という考え方。

 

前者の例はこんな感じだ。

 

先輩にゴルフを趣味にしていた人がいた。

当時係長だった先輩がゴルフ自体を楽しんでいることは間違いなかったが、特に熱心に取り組んでいた理由は、会社の役員や部長が同じようにゴルフを趣味にしていて、そこに1つのコミュニティが出来ていたことが大きかった。

 

その後、転職した先輩に会う機会があったが、もうすっかりゴルフ熱は冷めていた。

転職先の会社には、ゴルフで形成されるコミュニティはなかったのだと思う。

 

つまり、先輩の本当の目的は、楽しくゴルフをすることよりも、役員や部長のコミュニティに入ることで気に入られたい、仕事でも認めてもらいたいというものだ。

 

このケースは、僕らは過去に何度も経験してきていて、例えば学生時代にその時々の流行のゲームやマンガに夢中になったことも含めて、本当の目的は、コンテンツそのものを楽しむことよりも、友達同士の友情を確かめ合うような側面が強かったように思う。

 

続いて後者のケースを見てみたい。

 

格闘技をやっている後輩がいた。

 

彼は誰かに対する忖度や流行に乗るといった他人起点ではなく、純粋に競技に対して楽しさを感じていた。

 

そんな彼は、学生時代も社会人時代も、日常のコミュニティとは別に、格闘技を起点につながった人同士のコミュニティを持っていた。

 

そこに集まるメンバーの目的は、メンバー間における優劣を競うことでも、群れることでもなく、格闘技そのものを真剣に楽しむことであり、前者のケースと間反対であると言える。

 

このようなコミュニティの良さは、常に好きなものに通じて健全に競い合うことで、刺激を受け続けることができることだ。

 

常に刺激があるということは、飽きにくい、継続性が生まれるということだと思う。

 

細く長く続ける意識を持っているか?

 

僕の個人特性として「飽きやすい」ということに加えて、もう一つネックだと感じていることがある。

それは、「一度飽きたものは、すっかり忘れてしまう」ということだ。

その理由は、どれだけハマっていたものでも、一度飽きた後、二度と興味を示すことができないという性質があるからだと思う。

 

ある意味、「趣味の使い捨て」と言っていいかもしれない。

 

なので、マニアレベルまでハマったコンテンツでも、それに飽きてしまった翌年には、もう全く話についていけないということもざらにある。

 

これはつまり、せっかく過去の自分が時間やお金を投資したにも関わらず、全くそれが身になっていないということだ。

 

もちろん、全ての情報を詳細に覚えておく必要はない。

しかし、何かのタイミングで、過去の自分が趣味にしていたことが活きるという場面がある。

そういた時に、自分の引き出しからそれを出せるのか?忘れてしまっているのか?というのは、大きな違いがあるように思う。

 

ちなみに、過去の趣味やその経験をすぐに自分の引き出しから出せる人には、ある特徴があると思う。

 

それは、細く長く趣味と向き合っているということである。

極端に熱中する訳ではなく、普段の生活に中に自然に取り入れることができているのである。

 

数年前、同僚の中で筋トレが流行った時期があった。

 

自宅に機材を一式揃え、筋トレルームまで作ってしまった同僚がいたが、彼はもう一切筋トレの話はしなくなってしまった。

 

一方、気が向いた時だけ近所の公園でトレーニングをしているという同僚は、いまだにその習慣を続けていたりする。

 

現在では、後者の同僚の方が引き締まった身体をしているのは言うまでもない。

 

まとめ

「飽き」ということは、様々な捉え方ができる。

それは、決して悪いことだけではない。

「飽きる」ことで、新しい何かを知ることができる。しかし、物事の理解は深まらない。

「飽きない」ことで、物事を深く探求できる。しかし、それによって視野が狭くなることもある。

 

大切なのは、「飽きることを悪」「続けることを正義」とするのではなく、この両者のバランスを考えながら、自分にとってどこが最適なのか?という尺度を持つことが、趣味との向き合い方においては大切なのだと思う。