日常生活における小さな幸せは、「食」にあると思った話。
・目標にしていたことを達成する
・憧れの人に会う
・高級品を手に入れる
・特別な場所を訪れる
幸せを感じる条件や尺度は、人によって様々だ。
そして、それを達成することは簡単なことではない。
また、困難を越えること自体が、幸福感という感情を呼び起こすのかもしれない。
でもその一方で、幸せになるためには、ずっと努力と忍耐と我慢を繰り返すべきで、それをしない人は幸せになれないはずだ。というストイックかつ旧来型の考え方が、いまだに社会の中心的な考え方として語られがちなのはどうなのか?と思う。
それはまるで、自分の人生に100の時間があった場合、1の幸福感を手に入れる為に、99の努力と忍耐と我慢を強いるもののように思う。
トータルで振り返った時、その人生は幸せだと言えるのだろうか。
少なくとも自分はそうは思わない。
だからこそ、日常の中にもっと手軽に幸福感を感じてもよいと思っている。
むしろそれによって、人生においてある程度必要な努力と忍耐と我慢をするエネルギーを補給できると思っている。
では、どうやってちょっとした幸せを得ることができるのか?
それが、「食」だと思う。
なぜなら、「食」というのは、ほんの少しだけ手間やお金をかけるだけで、劇的にその美味しさ、またそこから感じる幸福度が変わるからだ。
洋服やアクセサリー、インテリアなどでは、そうはいかない。素人が商品やブランドごとの多少のクオリティや金額の差を感じることは難しい。
しかし、「食」というのは誰でも、その微差を大きく感じることができるのだ。
(厳密にいえば、相対的に多いという表現が正しいかもしれないが…)
僕自身がそれを感じる3つのケースがあるので、この記事ではそれについて紹介したいと思う。
デパ地下の弁当
普段の昼食は、冷凍食品が中心の手作り弁当やスーパーのワンコイン弁当、もしくはファーストフードで済ませてしまうのが僕の通例だ。
これらも、決して不味くはない。むしろ、美味しいとさえ思いながら食べている。
しかし、年に数回ほどデパ地下の弁当を購入することがあるのだが、これは別格だ。
価格は通常のコンビニ弁当の2~3倍ほどだが、味は数十倍上を行っているように感じる。
それは、人件費もさることながら食材の素材、鮮度、調理法いずれにもこだわりがあるからなのだろう。
価格だけ見るとコスパが悪いように思えるデパ地下の食品だが、実際に食べてみるとなぜあのような高い食品にいつでも人が群がっているのを少し理解できるような気がする。
回らない寿司屋の寿司
寿司というだけで僕にとっては贅沢品だ。
自分へのご褒美といっても100円の回転寿司で大満足だ。
以前に北陸へ旅行に行った際に、せっかく旅行に来ているならと、いわゆるカウンターの寿司屋へ入った。
そこで提供された寿司は元々、魚介類はあまり得意ではない僕の味覚の価値観が根底から変えるような代物であった。
口にいれた瞬間、舌の上でとろけ出すその感覚は言葉で表すことができない程、「鮮度」というものの大切さに衝撃を受けた。
もちろん、店内に入るまでの敷居や価格は高かったものの、それが全く気にならないほどの満足を感じることができた。
仕込みに丸一日使った手料理
本格的に自炊をするようになったのは、コロナ禍になってからだ。
しかし、その目的は、あくまで「食を楽しむ」ということではなく、外食ができない凌ぎや、節約の目的要素が強かった。
その為、僕の自炊というのはできるだけ安く、できるだけ早くというコスパ重視の料理に偏っていた。つまり、自炊の食事というのは、不味くはないが胃袋を満たすだけの作業になっていた。
そんな作業的な食事に少し虚しさを感じていた時、仕込みに丸一日使う料理に挑戦してみた。温度や時間を細かく調整しながらじっくり作り込む料理は、同じ食事をつくる作業は作業でも、少し自分の中では新しい高揚感や探求心を感じることができる体験だった。
そして、その際につくったのは、「鶏肉のコンフィ」という料理だったのだが、こんがりとしあがった鳥皮と触れた瞬間崩れ落ちそうな肉のコントラストに、感動すら覚えた。
まとめ
日々、仕事や人間関係のストレスにさらされる中で、一息の幸福感を感じることはとても大切なことだと思う。
ただ、それはともすると必要以上の贅沢や浪費につながりかねない。そして、長期的にそれは、幸せとは真逆のものをもたらす可能性すらある。
僕なりの考えとしては、週1回、今回のようなちょっとした「食」の贅沢を楽しむ。
そのくらいが、ちょうどいい精神的な安定とコストのバランスではないかと思っている今日この頃である。