【感想】「ドライブ・マイ・カー」で感じた多面性との向き合い方について。
【感想】「ドライブ・マイ・カー」で感じた多面性との向き合い方について。
- 第74回カンヌ映画祭での四冠獲得
- 日本映画としては62年ぶりのゴールデン・グローブ賞受賞
- 日本映画初のアカデミー賞ノミネートの筆頭
いま大きな話題となっている「ドライブ・マイ・カー」。
久しく映画館に足を運んでいなかった僕だが、その話題性もさることながら、原作が大学時代に読み耽った村上春樹であることや、テーマが車・ドライブであるといった点が、自分の嗜好との重なりが背中を押した。
僕は平日に都内の映画館で鑑賞したのだが、まん延防止措置が出ているにも関わらず、思っていた以上の人数が来場していたことにも作品の注目度の高さを感じた。
「ドライブ・マイ・カー」は3時間の長編だったが、時間を忘れてしまうくらいに没頭してしまった。作品のあらすじは他のサイトやブログに譲るとして、僕がこの本作から感じた感情や大切だと思ったことを記憶が鮮明なうちに綴っておきたいと思う。
人間の多面性
本作の登場人物たちは、実に様々な顔を見せる。
そして、過ちを犯してしまった負の自分に対して深く悩みを抱えている。
- 昼の顔と夜の顔
- プライベートの顔とパブリックな顔
- 脚本家の顔と演技者の顔
当然、これは僕らにも同じように言えることだ。誰だって、いろんな顔をもつ。
しかし、そのように様々な顔を持つことは、「八方美人」などという言葉がある通り、ある種、ネガティブに捉えられがちだ。演じることをやめ、一つの人格で生きることが正義だと、心のどこかで思ってはいなかっただろうか。少なくとも、自分にはそんな節があった。
誰もが、自分の中に認めたくない、受け入れたくない、臆病で、卑しく、傲慢な自分がいる。
「自分の中のもう一人の自分」
このような存在があること。そして、その存在と「どう向き合っていくのか」が、この作品における一つの大きなテーマだと感じた。
理性の制限と解放
多面的な自分と向き合っていくということは、自分が思うままにすべてを解放すれば良いという単純な問題ではない。一定の理性を持って自分をコントールするバランスをもたなければいけない。
この難しさは、作中でも対比的に描かれている。
西島秀俊演じる脚本家の家福悠介は、妻の不倫現場を目撃してしまったにもかかわらず、妻との現状の関係性を維持することを望み、沸き起こる怒りや悲しみの感情を理性的に押し殺し、何も見なかったことにしてその場を後にする。
一方、岡田将生演じる俳優の高槻耕史は、とにかく自分のその場の感情に身を任せ、複数の女性と関係を持ったり、自分にとって不都合な人間に対して怒りをあらわにする。
理性をコントロールしすぎる家福と、全くコントロールが効かない高槻、どちらもそれぞれの判断に対して大きな後悔をすることになる。
多面性の受容
多面的な自分の存在を乗り越える為の一つの答えは、「もう一人の自分も自分なのだ」と受け入れるということだと思う。
つまり、複数存在するどれだけ醜い顔もすべてひっくるめて、自分という一つの人格を形成する要素だと理解し、に認めることでしか、自分は救われないのだと感じた。
そして、その受容にたどり着くまでに必要なのは、他人の多面性に触れること、そして、自分の多面性としっかり向かう場所と時間をつくることなのだろうと思う。
主人公の家福が、長年愛する車を乗り続けること、誰かとの重要な話は車を走らせながら語られること、そのロングドライブの過程には、単にドライブをするということだけではない「多面的な自分や他人と向き合う」という特別な意味が含まれていることを感じた。
まとめ
久々に映画館でしっかりと映画を観た。
普段自宅でもサブスクなどで映画を観ることはあるが、やはり映画館ではそれとは違うならではの「余韻」のようなものを感じた。
また、集中している分、作品から感じて考えることも多いと思う。
これは、サブスクやレンタルDVDでどれだけ映画を鑑賞しても得られない感情や感覚、また資産ではないだろうかと思う。
単純に金額だけでは片づけられない映画館というものの価値を改めて感じた1本だった。