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30代ビジネスマンの備忘録。 マネジメントやマーケティングに関するビジネススキルや、サウナ、ウィスキー、時計などの趣味について。

「思い出す」ことと「記憶の定着」の相関性について感じていること。

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「思い出す」ことと「記憶の定着」の相関性について感じていること。

 

「あれ?なんだったっけ?」

 

何かの節に、過去の記憶を呼び起こそうとする場面は誰でもあるだろう。

 

そして、ほとんどの人は、様々な理由をつけてその引っ掛かりをスルーしてしまっていると思う。僕もその一人だ。

 

しかし、世の中には、そのような引っ掛かりを感じたら絶対にスルーせず、しっかりと調べて自分の記憶に取り戻す人がいる。

 

僕が最近仕事で出会った会社経営者の方が、まさにそれを実践しているという話を聞いた。

 

確かに、彼の頭の中には自分が行っている幅広い事業の隅々までがしっかり叩き込まれていた。その証拠に、どんな緻密で詳細な質問に対しても、明瞭によどみなく言葉を返してくるのだ。そのスピードと的確さに、僕はただただ圧倒されるばかりだった。

 

そんな経験から自分の事を振り返ると、「マンガ」というものが思い浮かんだ。

 

過去に自分が好きだったマンガというのは、僕の記憶の中に明瞭に残っている。

それはなぜか?と考えてみると、学生時代の僕は好きになったマンガは、全巻買っていて、記憶が薄れる度に、すべて1巻から読み直すということを何度もやっていたのだ。

 

忘れては思い出し、また忘れては思い出す。

 

このループを繰り返すことで、どんどん記憶の定着が強まっていったのではないかと推察する。

 

また、前述した経営者は、それを自分の事業というフィールドにおいてナチュラルにやっているのだと思う。

 

ここまでの話を踏まえ、自分の経験をしっかりと自分のものにする為に、日々どうすれば良いのか?ということについて考えてみたい。

 

「思い出す」という行為を日々のルーティンへ

僕は日々の生活での情報インプットのルーティンにおいて、音声学習というものがある。

 

主に、音声配信アプリの「Voicy」や「Podcast」を利用して、ビジネス関連の情報を仕入れている。

 

しかし、その内容の9割は時の流れとともに、消え去っている感覚がある。

その理由は、思い出す機会がないことが大きな理由だと思う。

 

例えば、「その日の朝に音声学習で聞いたことが、そのまま実際の仕事の場面でも話題になった。」などのことがあれば、それは記憶に残るだろう。ただ、実際にはそれも極めて稀なことだとは思う。大切なことは、それに近い状態をどうやって繰り返される日々の中で、疑似的に再現するかということである。

 

一つは、寝る前に自分が朝どんな放送を聞いたのかを思い出すということだと思う。

そして、思い出せればそれでOK。思い出せなければ、もう一度聞く。

 

これをルーティン化することで、毎日のインプットが活かされると感じる。

 

本は多読と再読の組み合わせを意識

 

僕は何事にもゲーム性を取り入れることが好きだ。

だから、読書にしても「1時間で何ページ読めるか?」「1週間で何冊読書できるか?」というゲーム性を取り入れることで、モチベーションを上げていく傾向がある。

 

それ自体は、物事に取り組むテクニックとしては大切なことだと思う。

しかし、あまりに自分で掲げた達成目標にフォーカスしすぎることで、本来の読書の目的を見失いがちになる場面がある。

 

本を100冊読んで、「1か月で100冊読破です!」なんて威張っていても、そこから何も得ることができなかったらそれはただの時間の浪費だ。

 

なので、現在のフェーズからもう一段階、読書という行為と丁寧に向き合っていきたいと思う。

 

つまり、ゲーム性を取り入れて、広く浅く手を出した本の中から、「これは!」と思える本に出合ったら、とことん丁寧に再読するということだ。それも一度ではなく、忘れたら読み返し、また忘れたらさらに読み返す。

 

そのような、過去に僕がマンガで行っていたような読書習慣をビジネス書でも身に付けたいと思う。

 

アウトプットを複数の方法で

ここまで、比較的インプットの話が中心だったが、最後はアウトプットという側面にもフォーカスしたい。

 

「記憶を定着」という面では、アウトプットという行為は最後の仕上げだと思っている。

 

なぜなら、アウトプットというのは、中途半端な記憶の定着では全く成立せず、物事に対する理解があって初めてその土俵に立てるものだと思うからだ。

 

学校の教師でも、何のインプットもなく理解もせず教壇に立って授業ができないのと同じ理屈だ。やはり、きちんと自分なりの理解をした上で、生徒に教える。そして、それを繰り返すことで、教師自身も理解が深まり、伝え方の表現や順序にも磨きがかかり、より分かりやすい授業になっていく。というようなことと同じだと思う。

 

僕は教師ではないので教壇に立つことはできないが、僕の場合は、

  • 仕事における部下とのコミュケーション
  • ブログ
  • SNS

これが、自分のインプットしたものの理解を深め、磨きをかけていく場だと思っている。そして、その方法は一つに絞らず、多ければ多い方が良いと思っている。

 

なぜなら、場面や人に応じて、同じような話をしたとしても全く異なる反応が予想されるからだ。しかし、僕自身それはポジティブに捉えるべきことだと思っていて、多面的な指摘や示唆をもらうことは、自分にとってもより柔軟な考えをもつきっかけになると思うからだ。

 

まとめ

僕らは日々浴びるように情報を得ている。

ここ数年だけでも、サブスクリプションサービスの充実により、好きな時に好きなだけの本が読めるようになったし、映画も見れるようになった。

 

しかし、どこかでそれらをただただ浪費するだけの自分がいたこともなんとなく気づいていた。

 

今回の記事を書いていて気付いたことは、僕らはもっとゆっくりでいい。ということだ。

 

大量のコンテンツを使い捨てのように浪費するよりも、色々な制約の中で限られたコンテンツしかなかった時の方が、自分の中では価値あるものとして心に残っている。

 

だから、全く記憶にも残らないような膨大な消費量に満足するのではなく、繰り返し1つのものに向き合い自分の中に残していく。慌ただしすぎる時代だからこそ、そんなことを大切にしていきたい。