「考える」について考える
世界の産業構造が製造業からサービス業主体に移り変わる中で、加速していると思うことがある。
それは、サービスが進化すればするほど、人は考えることをやめていく。ということだ。
また、それだけ「考えさせないか」が良いサービスの基準になっているとも言える。
自分は、そこに対して決して批判的な立場ではない。
無駄なことを考えることをやめて、自分が本当に集中したいことだけにリソースを配分し、活動効率を最大化させるのは、変化の激しい現代に大切なことだ。
その一方で、思うことは無駄と言われることも必要なのではないか?という気持ちもある。
特に、「考える」ということにおいては、効率を重視するだけはない「ある種無駄なこと」に思索を巡らせるというのが、意外と人生の喜びや楽しみであったり、発見につながるケースが少なくないように思う。
なぜ、そのようなことを思ったかと言うと、直近で購入した「ゼルダの伝説」を遊ぶ中で、直面する数々の謎解き要素に、久しぶりに使っていなかった頭の部分が刺激された感覚があったからだ。
何もしなくても考えてもらえる社会において、考えることの楽しさを受動的に求めていく姿勢というのは、非常に大切なことなのかもしれない。