「自分のモノサシ」と「他人のモノサシ」
「もっと収入が欲しい」
「もっといい家に住みたい」
「もっと高い役職になりたい」
皆さん、こんな願望をお持ちではないですか?
もちろん、僕も思っていることです。
でも、それって何を基準に「もっと」を望んでいるのでしょうか?
実際、そのあたりのことは、なんとなくというか、感覚的というか、
あまり深くは考えない部分ではないのではないでしょうか。
それにも関わらず、それが普段の仕事、副業のモチベーションになっている。
なんて人も多いかもしれません。
実は、そこには大きな落とし穴があります。
それは、仮にそれらの願望が叶ったとしても、
決して「幸せにはなれない」という落とし穴です。
なぜでしょうか?
その理由は、認知科学の「自己認識」という点から説明することができます。
今回の記事では、認知科学の分野で、日本では有数の見識を持つ苫米地英人氏の著作
『「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める!』を参照しながら、
考察を深めていきたいと思います。
自分とは「他人の情報」で出来ている。
皆さんは自分の自己紹介をする時に、
どんな風に自分を語りますか?
- 〇〇大学を卒業して…
- 〇〇株式会社に勤めていて…
- 〇〇という資格を持っていて…
- 〇〇という趣味を持っていて…
こんな感じ自己紹介が一般的かと思います。
しかし、これは認知科学的に見ると、
「他者との関係にまつわる情報の集積」と捉えることができます。
つまり、「自我」とは他者の情報による点と点の網目から出来上がっていると言えます。
このように、自分が重要だと思う価値基準が、
他人からの刷り込みによって形成されている事実を本書では、
「他人のモノサシ」でできている。
と表現しています。
この「他人のモノサシ」は、マーケティングの場面でも多く活用されています。
メディアのイメージ戦略として…
・ビールを最高に美味しい飲み物のように演出するCM
・クルマがあることが家族の幸せであるような自動車メーカーのCM
これらの「自分も買わなきゃ損だ」
と思わせる心理状況をつくりだしているのは、
まさしく「他人のモノサシ」なのです。
「自分のモノサシ」とは?
「他人のモノサシ」と対比される概念が、「自分のモノサシ」です。
「自分のモノサシ」とは、他者を基準にするのではなく、
本当に自分がやりたいことは何か?ということです。
記事の冒頭にあげた以下の願望。
「もっと収入が欲しい」
「もっといい家に住みたい」
「もっと高い役職になりたい」
これらは、最終的には「自分がチヤホヤされたい」という
他人から見て良いと思われるものに過ぎません。
これら価値観やルールに縛られてしまうことは、
自分の集中力や思考力の低下を招く一番の原因です。
しかし、他人の価値基準に縛られて生きてきた僕らにとって、
今さら「本当の自分」を探すことは、非常に難しいことも事実です。
そこで、本書の示す答えの1つとして、
長期スパンで物事を捉えるという考え方をご紹介します。
それは、
「年をとって人生を振り返った時に、後悔のない生き方とは何か?」
という考え方です。
その時、収入、いい家、過去の役職は何か価値を持つでしょうか?
それよりも、
自分を大切に思ってくれる人がいること。
自分がいたことで幸せになってくれた人がいること。
このようなことが価値になってくるのでは、
と未熟な僕はぼんやりと考えます。
また、Appleのスティーブジョブズはこのような言葉を残しています。
「私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。
確かこうです。
「来る日も来る日もこれが人生の最後の日になると思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう。」
それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。
そしてそれから33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。
「もし今日が人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを本当にやりたいだろうか?」
それに対する答えが‘NO’の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。」
まとめ
「他人のモノサシ」で生きる人生に幸せはない。
- 「他人のモノサシ」⇒他人からの刷り込みによって形成された価値基準。
- 「自分のモノサシ」⇒自分が本当にやりたいこと。
価値観が多様になってくるこれから社会は、
共通の価値基準というものも曖昧になってくると思います。
その中で、「他人のモノサシ」で得られる一時的な充足感は、
ますます価値がなくなっていくのではないでしょうか。
そんな社会の中で、
自分と向き合って「自分のモノサシ」を持つことが、
どんな生き方をするとしても、後悔のないものになるのではないか。
と思います。
あなたはどんな「モノサシ」で生きていきますか?